祭りと快楽

以下、週刊朝日百科「日本の祭り」1ページ山折哲雄「祭りの快楽を呼ぶ精進潔斎」からの引用。

─開始─
 肉や魚を食べない。女に触れない。酒を断つ。茶を断つ…。
 昔は、このないない尽くしの期間が、祭に先立って日本では設定されていた。禁忌の期間、精進潔斎の期間といっていい。
 汚れたからだを清めるためだ。祭りはカミに直接触れる機会であるのだから、汚れたからだを磨きあげておかなければならない。

 からだのなかに渦巻く一切の欲望の空洞化をめざす。空洞化の果てに、からだは限りなく死体に近づいていく。このスリルに満ちたプロセスが、つぎの段階に訪れる快楽を、密かに手元に呼び寄せる。
…禁欲の水準が高ければ高いほど、快楽の喜びは深い。性的エクスタシーの絶頂度が高まる。その瞬間を手にするためには、死をも厭わない。
─ここまで─

一方、
─開始─
 これに対して、いわゆるカーニバルの祭りの手順は、どうも違うようだ。古くからカトリックの国々で行われてきた謝肉祭である。
 飲めや歌えの乱痴気騒ぎの祭りの期間は、そう長くは続かない。続けられるものでもない。

 ところが、それが終わったあとに、精進潔斎の長い四十日間が来る。これをレント(四旬節)という。荒野で四十日間の苦難を経験したイエス・キリストを想い起こして祈る特別の期間である。

…このレントというのは、断食をして自分の罪を悔い改めるための期間だった。そして、この清浄の四十日間が過ぎた後になって、ようやく静かなイースターがやってくる。復活祭である。キリストの復活を記念して行うカトリック最大の祭りである。
 精進潔斎を経て乱痴気騒ぎの祭りへ、というのが、わが国の祭りであった。これに対して、カトリック国の祭りは、どうもそれとは逆のパターンを演出しているようにみえる。
─ここまで─

日本とカトリック国を引き比べての祭り論。同じ快楽でも自分には日本のほうがより大きいように思える。

最近読んだレヴィ=ストロースの「悲しき南回帰線」にも、極限の飢餓状態の中で食物にありついたときの喜びについての記述があるようにである。

こうした例はすなわち、信仰や洋の東西といった違いを超えた人間の根源的な部分で、禁欲状態から解放された時に受ける快感が極大化されることを示唆していると読み取れるからである。