カーニバルの後で

同じチームの参加者何人かに話を聞くと、毎年出ているという人が多く、ああこの祭りはこの会社の夏の一イベントに過ぎないんだな、と深く感じ入った。

彼らにとってこのイベントに参加することは、ストレス発散的、仕事からの開放的(裏っかわには
もちろん仕事の延長の枠組がある)、内輪的盛りあがり的遊びの域を出ていないわけで、祭りの中に日常性が顕現してしまっているのである。

彼らにとってこれがサンバであろうとフラダンスであろうと阿波踊りであろうととにかく何でもいいはずだ。

このような同義反復的、形式のみのイベントに3年も4年も続けて出て、さらにその場に留まるのみというのだから、そこに向上心や発展性や革新性などを求めることなど全く適わないわけだ。何せ目的が違うんだから。

一方、祭りをルーティンワークとして
考えてみるならその形式性にも重大な意味が孕まれていることはあるだろう。他チームの練習風景を控え室から見ることができたが、ひとりひとりの一挙一動を綿密に指揮されたバテリア隊からは、個人の精神の自由な発露といったものよりむしろ、全体性の中から醸し出される呪術的な儀式性のようなものを強く感じさせられた。これは
ブラジルのカーニバルからさらに飛んで、アフリカ土着的な色彩をも内包しているようにも思えた。絶えざる反復によって精神を高揚させていくというのは、もとより黒人のソウル、ゴスペルといった音楽表現の中にも見られるような祝祭的な側面が表されているといえるのかもしれない。

また、今回初めてカーニバルというものに参加してみて、そこに参加する人間、それを見る人間、さまざまな立場があるという当たり前の事実に思いを至らせる機会に恵まれた。同じアホなら踊らにゃソンソンの精神で参加したが、参加する人間は見ることができないという事実もよくわかった。造る者と見る者、そこには似て非なるものといった単純な二元論では切り分けられない断層がある。

来月、サンバの国で何を考えるかは非常に重要なテーマとなった。