テレオマ

ある家族が陥る巨大な心の喪失の物語。
喪失とくれば再生がセットになるのがセオリーだが、この映画にはそのような視点はない。

娘は精神を病み目を見開いたまま硬直し、息子は現実逃避のため芸術作品制作に没頭する。母親は男あさりにのめり込み、父親は現実の象徴とも言える衣服を自ら脱ぎ捨て、全裸で砂漠をさすらう。
ただメイドのみ神の啓示を受けたか宙に浮くが、最後には土に埋められてしまう。

パゾリーニはこのように、空虚な心を何かで満たそうとする人間の類型的な行動を、冷たく描写し、またカリカチュアライズし続けるが、その最大の狙いはどこにあったのだろう。
ずっと続くかに思えた幸福が幻だったと気づき、埋め合わせのために表面的な快楽や現実逃避に溺れる人間の姿を風刺するというだけなら面白くない。

また、アントニオーニなどが好んで描いた「愛の不毛」「人間性の不在」といった、なぜかはわからないがいかにも「イタリア」的なテーマと通低するものがあるのだろうか。一見しただけでは即断できないが、「神への冒涜」といったパゾリーニお得意のテーマの一環であるとも考えられる。

文献に当たるなどして考察を深めてみたいところだ。