森美術館で考えたこと

人間のアタマの中では、何かものを見たとき、今までの自分の経験の引出しをまさぐり、その中から最も合致度が高いものを引っ張り出してきて、目の前のものをその既存の枠に当てはめようとする反応が働くのだと思う。

そして、今まで目にしてきたものと全く相いれないものを目の当たりにすると、戸惑いが引き起こされることになるのだろう。ひとは生活の中で体験することに対して連綿と理解するという行為を繰り返している。そして理解できないものは排除しようとする。わかりやすい例はアメリカのエリートたちが、自分たちの政体を最も優れたものと思い込み、例えば中東などの政体を彼らの文脈では理解できないもの、あるいは未発達のものとして扱い、それを排除し、また自分たちの政体を無理矢理移植しようとする、そんな流れに象徴的であろう。

現代アートはそうした考え方とは逆に、今までなかったものを高く評価するという流れがあるように思う。今までに作られたものは、すでに消費され、日を追うごとに価値が漸減するしかないものと見なされ、今までの枠組みにくくられない理解を超えたものを常に求めるという傾向があるのだろう。

しかし、普段から見なれている人や制作の意図がどのようなストリームの中にあるのかを知悉している人であれば、現代アートのわからなさの中に評価の軸足を作り、理解の枠のようなものができあがっているのだと思う。

翻って作者の側から言えばそのように築かれた理解の枠組みをさらに超えたものを発表し続けなければならないわけで、超越と陳腐化の果てしのない攻防が繰り広げられ続けるという構図になっているのではないだろうか。