ひとは何のために生きるか

山手線の殺人的混雑に思うのは彼ら彼女らはそんなにまでして会社に行きたいのかということだ。なぜ会社に行きたいのか?当然サラリーを得て生活するためだ。すなわち「生きる」ために彼ら彼女らは殺人的混雑の中にも嬉々として身を投げ入れる。翻って自分を考えたとき、自分もそのひとりでしかないという事実に愕然とさせられる。そんなに生きたいのか?そして何のために生きるのか。何とも朝から虚しくなるわけだ。

白根全氏の「カーニバルの誘惑」のまえがきに、人は何のために生きるか、人はカーニバルのために生きるのだといった記述がある。ブラジルの貧困層リオのカーニバルなどを一年のハイライトとし、カーニバルに向けて普段は粛々と生活しながら、その2日間に熱狂、蕩尽の限りを尽くすのだそうだ。

ここにはまだ「大きな物語」が頑として存在している。東浩紀氏がポストモダンを評して、近代を支配していた「大きな物語」が消え去り、「大きな非物語」から無数の「小さな物語」が生産・複製され続けるとしたが、まだ「大きな物語」が幅をきかせている場所も多いのだろう。

ブラジルは自殺率が非常に低いのだという。そこには、多様性を容認する国の成り立ちとともにカーニバルなどが「生きる」意味をひとに与える装置となって機能しているのかもしれない。そうすると果たして近代は本当に「超克」すべきものなのかどうかフト疑問も湧いてくる。