渡辺謙のオスカー落選に思う

先日渡辺謙アカデミー賞助演男優賞を逃して悔しがっている映像がテレビで流れた。渡辺の演技が、これまでのアカデミー賞の文脈に則しているものかどうか。そして、今の政治状況に照らし合わせて日本人の受賞がそぐうかどうか、というところが着眼点となるだろうが、要するに彼はそのいずれにも適合しなかったことになろう。

渡辺の悔しがりようからするとオスカー獲得が彼にもたらす経済的見返りは相当なものと見積もっているようだが、見ているほうからすれば滑稽のひとことに尽きるものだ。

では何が滑稽なのか?そもそも映画は動く写真として構想され、そこに音声などが付加されることによって、総合娯楽あるいは芸術としての骨格を形作っていく過程をたどったわけだ。

そして、その娯楽性に着目し、金を生み出す装置として徹底的なシステム化を図ったものがハリウッド産業といえるだろう。そこからはもはや芸術性は消え去り、金になりそうな話にいかに鼻が利くか、そしてそれを誰よりも早く掴み取れるかを日々競争し続けるという構図になっている。

要するに、そんな、まさにアメリカンビジネスの典型ともいえるような枠組みに取り込まれたい、受け入れてもらいたいと考える彼のメンタリティが滑稽だということだ。